音まちかわら版:「音楽を伝える」という永遠の宿題[小日山 拓也](2013.2.20)
「音楽を伝える」という永遠の宿題 [小日山 拓也|こひやま たくや]
5歳から足立区大谷田に在住。東京藝術大学美術学部絵画科(油画専攻)卒業。ギター、コントラバスから創作楽器まで、あらゆる楽器を弾きこなす。奇想天外なアイデアでつくる創作楽器も多数。「音まち」では、各企画の演奏者として、企画立案者として、ときには大工として活躍。「風呂フェッショナルなコンサート」では「風呂楽器」アイデアを大量に考案、製作。2013年の「未来楽器図書館」で創作した楽器も子供たちに人気を博した。現在、地域で子供向けの楽器をつくるワークショップに取り組む。
▲千住いえまちプロジェクト×千住ヤッチャイ大学主催「千住まち寄席」での一場面。ヤッチャイ隊有志のちんどん屋、左端でフルートを演奏しているのが小日山さんです。(2015年1月24日)
○風変わり
高校が上野だったので、このとき初めて自分の育ってきた足立区から出て、区外の人と接し「足立区」を意識した。「治安が悪い」とか「喧嘩ばっかりしてる」とか「ブルーカラーの人が多い」とか言われたりもしたが、むしろそれが自分には面白かった。人と同じことが嫌いで、風変わりなものが好きなタイプなので、「足立区」は風変わりな自分の「アイコン」となった。実際には治安も悪いわけじゃないし、バイトなどで身近だった肉体労働者もいい人が多かったけれど。
2浪して入った東京藝大では油絵を専攻したが、大学を出てからは好きな音楽にのめりこんでいった。美術や音楽のジャンルで身を立てるのは簡単なことではない。高校時代から今にいたるまで、肉体労働系の高収入のバイトをしながら、自分のやりたいことをやるという道を選んだ。10代から20代は都会志向だった。藝大を目指したのもそんな気持ちの現れだったと思う。東京の一番進んでいるものばかりに目が向いていた。
「音まち」と出会うまでは、活動の中心は主に中央線沿線だった。高円寺や新宿に夜な夜な出向き、音楽を聴き、弾いた。そもそもオレの音楽は、自分の育った足立区では理解されない。そう思ってきた。藝大にいたときも、金属やガラクタを切ったり貼ったりコラージュしたりして、作品だか楽器だかわからないようなものをつくっていた。音楽も同じだ。クラシックもジャズも音楽は何でも好きだけれど、自分がたどり着いたのはフリージャズや即興音楽。いくつかのバンドをかけ持ちして、先鋭的な音楽を追求してきた。多くの人は理解してくれないけど、わかる奴だけわかればいい、オレはオレの好きなことをやる。そう思ってきた。自分について来ない人を突き放しながら、突っ走ってきた。逆に言うと、自分の芸が受け入れられる場所を探してさまよっていたともいえるかもしれない。
○「音まち」との出会い
「音まち」には、最初は2011年10月に千住の魚市場で開催された「ぬぉ」の演奏者として参加した。足立智美という有名な現代音楽家の作曲・監督、ということで、単純に面白そうだと思った。そのころは高円寺や新宿に出かけていたが、「活動の場が広がるかもしれない」。そんな軽い気持ちだった。「ぬぉ」では、普段は魚の取引がなされている市場を舞台に、集まった約70名の演奏者が持ち寄ったまったく統一感のないバラバラの楽器、楽器のない人は自分の身体や声、ペットボトルやゴミ袋を使った創作楽器を使って、さらに市場関係者による模擬ゼリなども織り込まれ、夕闇迫る広いコンクリートの空間に、これまでに見たこともない新しい音楽がつくり出された。一演奏者として、とにかく面白かった。
「ぬぉ」が終わって、しばらく経ってからのことだ。ものすごい後悔の念にさいなまれるようになった。「ぬぉ」でともに市場の舞台に立った演奏者たちの何人かとは連絡先を交換していたが、多くの人の連絡先がわからなくなってしまっていた。メンバーがものすごく魅力的で、分野は違ってもそれぞれが何かのスペシャリスト、面白い人たちばかりだったので、またぜひ会いたい、一緒に何かしたい。その気持ちがもう一度、「音まち」へのコンタクトを促した。「音まち」の中に入っていかなければ彼らと会えない。「音まち」の中に入ることで彼らと一緒に活動ができる。
そして企画運営メンバーとして、手伝いとして、ときに演奏者として、さまざまな形で「音まち」に関わり始めたのが、「ヤッチャイ隊」に入ったきっかけといえばきっかけだろう。今、「音まち」のメンバーでつくる「音まちバンド」がいくつかある。それぞれの活動拠点、たとえば新宿だったり、深川だったりに出かけていき、演奏をするというのを何度も行ってきた。そして、今後はこのユニークな「音まち」のメンバーで、足立区に、千住に戻って演奏したいと思う。
○地域とともに
自分は大谷田の団地で育ち、今も大谷田のマンション住まいなので、地域との関わりというものがまったくなかった。「音まち」で初めて商店街の中に「音う風屋」という拠点を持ち、地域の祭りに参加したり、商店街の抽選会を手伝ったりしている。正直言うと、自分は音楽やアートが好きなだけで、地域の祭りなどはどちらかというと苦手だ。でも「音まち」がまちなかのプロジェクトなので、地域と接点を持つようになって、これまで「わかる奴だけわかればいい」なんてつっぱっていたときには見えなかったいろいろなことが見えるようになってきたことに気づく。「どんな人も音楽は楽しめるもの」という原点に立ち戻ることができた。
自分の作品なんてわかってもらえるはずがないとある意味あきらめて40年生きてきたけれど、まちの人とじっくり話して、相手のことをしっかり見て、自分のつくるものや音楽に興味を示してもらえたとき、「私、これ好き」と気に入ってもらえたとき、また子供たちが楽しんでくれたとき。これまでの自分の音楽活動の中にはなかった面白さを感じる。「音まち」がまちなかの企画だから、という面もあるけれど、本当は自分でも昔から音楽の知識のない人にもアプローチしたかったのだと思う。ただ、面倒だと思って避けてきた。自分にとってはそれが永遠の「宿題」みたいなものだったのかもしれない。
取材・構成=足立区シティプロモーション課
発行日=2014年3月31日