アーティスト 足立 智美 ADACHI TOMOMI

アーティスト 足立 智美 ADACHI TOMOMI

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ジョン・ケージ 「ミュージサーカス」芸術監督:足立智美

平成24年11月3日(土)15:00~17:00 ※雨天の場合、11月4日(日)12:00〜14:00に順延

このコンサートでは、演奏者やパフォーマーが各々「同時に」「様々な場所で」「独立して」演奏を展開します。みなさんは、その周りを自由に動きながら、さまざまな音楽が交じり合っていく状態を楽しむことが出来ます。いったん、音楽という枠組みを離れてみれば、世の中には様々な音が混じりあっています。その状況に積極的に参加し、体験してみましょう。自立した人々が中心を持つことなくお互いを受け入れていく、ケージの考えた音楽による社会モデルが展開されるでしょう。(足立智美)

足立智美(あだち・ともみ)

1972年生まれ。パフォーマー、作曲家。現代音楽の演奏や作曲、音響詩や即興音楽、サウンド・インスタレーションの制作、楽器の創作など幅広い領域で活動。坂田明、高橋悠治、一柳慧、五世常磐津文字兵衛、猫ひろしらと共演。2003年にダンサー・振付家の伊藤キムと、カンパニー即興合唱団『足立智美+輝く未来合唱団』を組織。2008年には、東京都写真美術館「映像をめぐる七夜」に出演。その他、テート・モダン、ポンピドゥー・センターなど世界各地で公演。

足立智美ホームページ http://www.adachitomomi.com/n/biography.html

ジョン・ケージの《ミュージサーカス》について —足立智美(インタビューより)

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—《ミュージサーカス》って?

 

今回、足立区千住にある東京都中央卸売市場足立市場(以下、足立市場、市場)で、ジョン・ケージの《ミュージサーカス》を演奏します。この《ミュージサーカス》は、さまざまな演奏者やパフォーマーが、会場の各所に配置され、そこである決められた時間に、それぞれの独自な演奏・パフォーマンスをし、それを観客・聴衆が自由に観て、聴いて回るというものです。

 

わたしは、以前にも《ミュージサーカス》に関わったことがあるのですが、その時は室内で演奏しました。その時の経験から、これは閉ざされた空間でやるのではなく、屋外でやるのが適当なのではないかと思っていました。たまたま、昨年、「アートアクセスあだち」で、わたしの作品《ぬぉ》を足立市場で演奏した時に、場所による残響、反響の違いがあるここが、《ミュージサーカス》の演奏には適当な場所だと気づいたのです。

 

実は、《ぬぉ》の前半部分などは、《ミュージサーカス》を意識してつくったので、形としては似かよっています。つまり、市場内の各所に散らばった演奏者が演奏をするのです。ただ、最後には演奏者が1か所に集まってきて終了します。

 

《ミュージサーカス》では、人と人がいっしょの時間を共有はしますが、お互いはバラバラなピースのままで、そこには「関係」がないわけです。一般的な音楽演奏の、「いっしょに何かをやる」という要素がまったくないのです。つまり「音楽の喜び」としてこれまで考えられてきたもの――たとえば、「ここがうまくできた」というカタルシスや達成感のようなものは、《ミュージサーカス》にはないかもしれません。

 

リハーサルもしない。会ったこともない人たちが集まって、他の人たちが何をやっているかにはまったく関係なく、それぞれが「自分のやるべきこと」をやる。「なんで自分はここにいて、これをやっているんだろう」という疑問さえ浮かんでくるのです。ですから、そこでは「精神力」が要求されるのです。それはまるで修行のように思えるかもしれません。

 

演奏者・パフォーマーと聴き手の「体験」は、かなり違います。演奏者・パフォーマーは、他のパフォーマーの音が聴こえていても、聞かないようにしなければならない。ところが、聴き手はそういうことを考える必要はないので、気楽です。その落差は非常に大きいのです。となりどうしの演奏者・パフォーマーは、その演奏・パフォーマンスに関して「競争」する必要はまったくありません。お互いに競争してしまうと、一つの方向性、関連性が出てきてしまうからです。同じ場所にいるけれど、お互いは独立している。それが「世の中」というもののモデルだ、とケージは言っています。

 

 

—「作品」ではなく「アイディア」

 

《ミュージサーカス》は、1967年に発表されました。もともとは、それ以前のケージ自身の作品を同時に演奏するというものでした。ですから、最初のころの《ミュージサーカス》は、ケージの作品のみの演奏から成り立っていましたが、次第にアイディアが広がっていき、やがて、誰のどのような作品を演奏してもいい、どんなパフォーマンスをしてもいい、ということに変わっていきました。

 

《ミュージサーカス》には、いわゆるスコアなどの「楽譜」はありません。説明や指示を記したいくつかの文章があるだけです。

 

         “Some years ago … we gave a Musicircus … in a large gymnasium. We simply had as much going on at  

          a single time as we could muster. And we exercised no aesthetic bias. … You should let each thing that

          happens happen from its own center, whether it is music or dance. Don’t go in the direction of one thing

          ‘using’ another. Then they will all go together beautifully (as birds, airplanes, trucks, radios, etc. do).”

           – John Cage

          “何年か前、ミュージサーカスを大きな体育館でやりました。私たちは単に集められる限り多くの事柄が

          同時に進行するようにしました。そして美的な好みを介入させませんでした。音楽であれダンスであ

          れ、あなたのすべきことは、すべてがその中心にあるように、物事を起こるがままにしておくというこ

          とです。他の人を「利用する」ような方向にいってはいけません。そしてすべては美しく共存していく

          のです(鳥や飛行機やトラック、ラジオなどがそうであるよう。)

           —ジョン・ケージ(訳:足立智美)

 

ですから、《ミュージサーカス》は、「作品」というよりは、「アイディア」と言ったほうがいいでしょう。

 

また、「サーカス」という言葉は、「曲芸的な何かを見せる」ということではなく、「演目が同時に何か所でも進行する」という意味です。たとえばレストランで、自分のテーブルではこういう話をしているけれども、隣りでは違う話をしている。隣りの話を聞こうと思えば聞くことができる。そういう状態のことです。また、現代の東京では、各地で演奏会がたくさん開かれていますが、その「壁」を取り払ってみよう、というような考え方に近いのです。

 

演奏者・パフォーマーは「会場の各所に配置され、そこである決められた時間に演奏・パフォーマンスをする」のですが、その開始時間、演奏場所は、基本的には、サイコロのような、偶然に左右されるもので決めます。

 

今回はまず、足立市場の構内図(地図)を用意しました。この地図中の、使用可能な範囲の中に、1から64まで、64個の数字を振ります(図参照)。この数字の位置は、足立市場の構造を勘案して、観客・聴衆が入って行きにくいような「死にスペース」ができないように、私が考えます。

 

ちなみに、「64」という数字は「易」の、「八卦」を二つ重ねた「六十四卦」に基づいています。そしてコンピューターで「乱数」を発生させ、それを使って、その64個の中から演奏者・パフォーマーの配置を決めていくのです。位置が決まったら、次に、それぞれの奏者がどの時刻から演奏を開始するか、ということを決めます。これも、全体の時間、つまり今回は2時間を64分割して、1コマあたり2分弱という単位で分けて、どこから始めるという時刻を乱数で決めます。

 

ですから、ある時間帯のある場所では誰も演奏していなかったり、逆に複数のグループが同じ場所で同時に演奏している、という状況も生まれるのです。

 

 

—楽しいことをやりたい

 

参加者(演奏者・パフォーマー)は、プロフェッショナルであるかアマチュアなのかは問いません。それは、先ほど言及した指示書の中に演奏者に関する指定がないからです。演奏・パフォーマンスをするのは大変ですが、逆に、誰でもできるのです。それはたとえばケージの《4分33秒》の演奏は誰でもできる、ということと同じです。

 

一般的に「音楽」は、快楽であったり、記憶と結びついたりという、情緒的な面が大きいのですが、それとはまったく異なる世界が世の中にはある。しかしそれを音、音楽でつくることができれば、その喜びを共有できる可能性がある。それは、実際にやってみなければわからないのですが。そういう感覚が見つけられればいいと思います。演奏者自身が楽しんで演奏・パフォーマンスをしてもらえれば嬉しい。辛気臭いこと、まじめくさったことはやりたくない。祝祭的で、賑やかで、少し非日常的で楽しいものをやりたいのです。

 

 

—楽器があまり弾けなくても音楽はできる

 

わたしは小さなときから楽器をやっていたわけではなく、ピアノをほんの少しだけ習いに行っていたことがある程度です。しかし、中学生の終わりくらいに、自分は音楽やる、ということを決めて、それからピアノの練習をまた始め、その後、吹奏楽部でパーカッションをやり、エレキ・ギターを買い……と、同じ楽器を継続的にやるということがなく、どの楽器も上達しませんでした。

 

けれども、音楽というものは、楽器があまり弾けなくてもある程度はできるのだと思います。わたし自身、音楽家になるためのプロフェッショナルな訓練は受けていないけれども、音楽家になりました。

 

《ミュージサーカス》でも、去年演奏した《ぬぉ》でも、基本的には楽器がうまくなくてもできるのです。その人のレベルで演奏できればいいし、それでも出てくるものはプロがつくる音楽には劣りません。

 

わたしは、今回の《ミュージサーカス》を含めて、「そろわなくても面白い音楽」をつくりたいのです。一人ひとりの人間が生み出す音が違うのは当然なので、そのさまざまな音が同時に鳴ることで、それが豊かな響きを生み出すような音楽をつくりたいと思います。

 

誰のほうがうまいだの、へただの、と言うけれども、誰でも時間をかけて練習すればうまくなるし、誰でも高い楽器で弾けばいい音になったりするのです。つまり、時間と金の問題に過ぎなかったりする。楽器のうまい、へたはどうでもいいことなのです。

 

 (インタビュー/構成 早川元啓)

 

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