音まち千住の縁

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2016
参 加 募 集

記事一覧

  • 【音まちかわら版】路地と旧家で大人のかくれんぼ[阿部吉光](2017.1.6)(2017.1.18)
  • 【音まちかわら版】やるかやらないか、迷ったら「やる」を選択する[田中充](2016.08.25)(2016.8.25)
  • 【音まちかわら版】ワクワクする。そこから、まちが変わる。[遠田 節](2016.01.07)(2016.1.7)
  • 【音まちかわら版】千住のまちなかに絵本の文庫を作りたい [足立真利](2015.09.04)(2015.9.4)
  • 【音まちかわら版】千住はおもちゃ箱みたいなまち[能見ゆう子](2014.12.21)(2014.12.21)
  • 【音まちかわら版】とまってるのが嫌なの。タクシーだから。常に走っていたいの。[安喰悦久](2014.7.11)(2014.7.11)
  • 【音まちかわら版】「音まち」は大事な遊び場[胡舟ヒフミ](2013.04.28)(2013.4.28)
  • 【音まちかわら版】2013.02.20「音楽を伝える」という永遠の宿題[小日山拓也](2013.2.20)

千住のまちとの関わりや音まちへの思いをインタビューした広報誌

「音まちかわら版」

ヤッチャイ隊や街の協力者の方に、まちとの関わりや音まちへの思いをインタビューした「音まちかわら版」を広報誌に掲載しています。

本ページでは、そのインタビューを全文掲載しています。

2017.1.18

【音まちかわら版】路地と旧家で大人のかくれんぼ[阿部吉光](2017.1.6)

路地と旧家で大人のかくれんぼ[阿部 吉光 あべ よしみつ]

静岡市出身。足立区島根在住。結婚により奥様の実家がある足立区に本籍を移す。
株式会社ヤクルト本社に在職中、ブラジルに4年、韓国に13年派遣され、多くの修羅場を乗り切る。
現在は週4日、障害者送迎の仕事を手伝い、週1日は近くの住区センターで健康麻雀(飲まない・吸わない・かけない)を楽しんでいる。
2015年度の千住・縁レジデンス 友政麻理子「知らない路地の映画祭」で2本の脚本を手がけた。今年度は新作「かくれんぼ」の制作に奮闘中。

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○大人のかくれんぼを映画に
脚本っていうのは自分の場合、できるときにはポーンってできちゃうんですよ。できないときには何をやってもできない(笑)。今回つくる映画「かくれんぼ」は、まち歩きの後、仲町の家でみんなと話して帰って、すぐにポン!ってできちゃいました。この家で、特にあの不思議な屋根裏でかくれんぼさせたら面白いだろうな、廊下も座敷わらしを走らせたら面白いだろうなって。法学部で刑法を専攻していたこともあって、もともとサスペンスやSF的なものが好きで、自分が一番しっくり来るのは「世にも奇妙な物語」的なものなんです。その後、メンバーのメーリングリストで、行きつけのバーを使わせてもらえるかもしれないって話があって、バーからこの家まで千住の路地を通って、まちなかのかくれんぼもすることで、摩訶不思議な感じを出したいなって思いました。大人がかくれんぼするってこと自体がありえないので、どういう設定なら自然に連れてくることができるかなと。

○2人の喧嘩が心配で心配で
4年ほど前に北千住駅前のカルチャーセンターで脚本教室に参加したんです。自分の脚本を書きたいという強い思いはなくて、定年後でしたので、好きな映画やテレビを見るときにもっと楽しめるようになるんじゃないかなと思いまして。でも勉強したら逆にアラばかり目につくようになりました(笑)。そのときは1時間もののサスペンスドラマを1本書いたら憑き物が落ちたというか(笑)。ですが、脚本という紙切れから立体的に映画が立ち上がってくるって経験はしてなかったので、1年前に区報で自主映画制作プロジェクトの募集記事を見つけて「あー、面白いのがある」とピンと来た。アルツハイマー対策です(笑)。そんなことでもないと、退職して家にいて、まったく頭使わないですからねえ。

そのときは、本当に映画できるのかなって思いましたが、できましたね。それはすごいと思いました。まとめていったアーティスト・友政さんの力と、たこテラスや音う風屋(おとうふや)っていう拠点があったことが大きいと思います。楽しかったこと? それはユニークな仲間と巡り合えたってことです。

多国籍なチームだったので、その場で英語のシナリオを書き直したりして、頭の訓練にはなりますよね。戦場みたいだった、とも言われますけれど(笑)。マイペースで場の雰囲気でどんどん変えてしまう監督と、かっちりとやりたい助監督の間で、2人が喧嘩しないか心配で心配で、調整役をしてました。喧嘩でこの映画が空中分解してしまうのが一番怖かったから。

ヤクルト本社で定年まで働きましたが、長く海外にいたんです。ブラジルと韓国と、日本から遠い国も近い国も経験して根性はつきましたね(笑)。

○どんどん変わっていきます
撮影してるとき、まちのみなさんは好意的でしたよ。「何やってんの~?」と話しかけてくれたり。大川町では、ここ曲がれるんだとびっくりするような路地があって面白かったです。柳原キデンキ(裸電球の街路灯)は、近所のおばさんが「あんなの、暗くて邪魔で」なんて言ってましたけど(笑)。昔と今が調和してるのがいい。まあ私らが勝手に言ってることですが。ひらめきにつながるものがたくさんありますね、千住は。でも、そんな健全な千住だけを出すのでなく、裏の部分や、実はコミュニティに出てこないご高齢の方や引きこもりの人がいることも表現したいって監督は言っていて、「社会からのかくれんぼ」ですね。みんなと話すうちに、どんどん変わっていきます。さあどうやって社会性を盛り込むのか、今のところはなかなかまとまらないですね。でも言われたことを直せば、どんどん良いものになっていくのは確かです。

2回目ということで、前回大変だったキャスティングも今回はイメージできてますし、全体に「何とかなりそう」な感じです。年齢も普段やってることもバラバラのメンバーですが、「何か面白いことやろう」って感じだけは共通してます。決して「映画を作るために集まるんだ!」って感じはない。本当は、みんなでぐだぐだ飲んでるのが一番面白いですよ(笑)。

2016.8.25

【音まちかわら版】やるかやらないか、迷ったら「やる」を選択する[田中充](2016.08.25)

やるかやらないか、迷ったら「やる」を選択する[田中 充 たなか みつる]

高校、大学時代に友人とロックバンドを結成、音楽活動にのめり込む。2011年から、音まちのボランティアサポーター「ヤッチャイ隊」に参加。2014年から、音まちメンバーを中心に結成したチンドン隊「千住ちんどん」を率いる。飄々とした風情で、何事にも無関心を装いながら、熱い内面をもつ人。現在、平塚に住み、千住まで2時間をかけて通っている。

田中充さん

○音楽があれば違う世界に行けた
子ども時代、親父がすごく厳しかったんです。ずっと成績も良くて、不良にもなれず、はっちゃけることもできなくて、エネルギーを内に向けちゃうタイプだったのですが、音楽があれば違う世界に行けた。パンクやヘビメタなどマニアックな音楽が好きだったので、話が合う少数の友達と、狭く、深くつき合った高校、大学時代でした。ロック系のバンドを組み、楽器はエレキベースを担当していました。

卒業のとき、特にやりたいこともなく、何となく就職したのですが、2001年に結婚し妻が出産した。生後まもなく息子が入院したことがあって、病院に会いに行って顔を見たとき、この子のために頑張りたいと心から思ったんです。

若い頃は、サラリーマン的な生き方が嫌いでした。親父の生き方に反発していたのかもしれません。でも自分が父になったのを機にサラリーマンになり、親父と似ている自分に気づいた。親父も自分も、温和に見られるのですが、意外と気が短く頑固なこと、身近な人にはそれが出てしまうところなど。また、サラリーマンの仕事も、やってみると、想像に反してめちゃめちゃ自分に向いていた。今も働いている電気系の会社は、1万個に及ぶ部品を組み立てるのが仕事なので、情報を丁寧に整理して、段取りをして、数多くの下請け会社や人の動き方を組み立てていく。そういうことが自分は得意なんですね。段取りの悪さが目につくので少しずつ提案をしたりして、自分のポジションができてきた。役に立っているのもうれしくて、仕事にものめり込みました。

そんな2010年、離婚。しばらくは落ち込み、いろいろなことを考えた。家族を持った10年間、自分がやりたいこと、子どもの頃からやってきたことを抑圧して来たのかなと。それなら今、好きなこと、新しいこと、何でもやってみようと思ったんです。ライブに出かけるようになり、見渡してみると、離れている10年の間に音楽の世界も状況が変わっていて、すげえ面白い。新たにバンドを組む気もなかったのですが、大友良英(※1)さんが水戸芸術館で、アマチュア演奏者を集めてやっていた音の企画があって、その気軽さに惹かれて参加するようになっていきました。

そして、2011年。3.11を機に、福島生まれの大友さんが動き出し、またほぼ同じ時期、大友さんの千住フライングオーケストラもスタートしていて、自分もそれらに加わっていったんです。千住に来たのは初めてでした。正確には、足立智美さんの「ぬぉ」(※2)に演奏者として参加したのが初・千住でしたけれど。いずれにしても人や企画に惹かれて来ただけで、場所はどこでも良かったんです。

○ヤッチャイ隊からチンドンへ
結婚していたときは新しい人と出会うこともなかったのですが、音楽を通していろんな出会いがあった。職場の仲間とはぜんぜん違って変な人が多くて(笑)面白いんです。とはいえ1つのことにどっぷり入り込むことは意識的に避けていたのですが、ちょっと顔を出したヤッチャイ隊の1周年パーティ@音う風屋(※3)が楽しかった。自分は人見知りなので初めての場にあまり入り込めないんだけど、このときは2次会まで行ったんです。自分が平塚から2時間かけて千住に来ていることが珍しがられて、当時事務局でヤッチャイ隊を担当し始めていた神谷さん(※4)が、会うたびに「今日も平塚からですかぁ?!」と声をかけてくれたりして、人間関係ができていって、ちょっと手伝うくらいならいいかなって、ヤッチャイ隊に入ったんですね。当時音まちは忙しくて人手も足りなくて、「僕やりますよ」って、街なかでのポスター貼りやイドラ(※5)の監視などを手伝いました。

給料もらってやっている仕事とは正反対に、ボランティアなので責任もないし利害関係もないけど、行けば喜ばれて、自分の「行きたい」という意志だけで、人との関係だけでする仕事は楽で、楽しかったです。

しばらくして、ヤッチャイ隊のヒアリングというのがありました。ヤッチャイ隊でやりたいこと、やれそうなことを聞かれて、「演奏できる人を集めてチンドンみたいなことをやったらどうですか?」って思いつきで言ったんです。

そのときはイメージだけでした。阪神大震災の後、中川敬がチンドン形式で街なかを演奏して歩いたり、いわゆる昔のチンドン屋さんじゃなくて、ポピュラーなミュージシャンがジャズやポップスをチンドンの形態をとりながら演奏したりしているのが音楽的に面白いなあって思っていたので、やってみたいなという気持ちがありました。チンドンっていうのは、鐘の「チンチン」と太鼓の「ドンドン」を組み合わせたもの。ストリートミュージックとしてとらえることで、古さの中に新しいものがある面白さを感じたのです。大友さんの「あまちゃん」も大きかったですね。あまちゃんでも結構、そういう音楽を取り入れてますよね。

でも、チンドンに憧れを持つ人は多いけど、チンドン太鼓は普通のルートでは手に入らない。自分は工作は全然得意ではないのだけど、同じヤッチャイ隊の小日山さんが何でも作ってしまうのを見ていて、作るのもありかなと思って作ってみた。作るにあたっては、本物のチンドン屋さんに作り方を聞きに行ったりもしました。できたチンドン太鼓を、大友さんの隅田川の企画のとき持っていったら、想像以上に合わせやすかった。それから自分がバンマス的に、みんなに声をかけたりして少しずつ、チンドン隊ができて行ったんです。

○大人の人間関係
今のチームでチンドンをやったのは、大巻伸嗣さんの「Memorial Rebirth千住2014太郎山」のとき(※6)が最初ですね。ヤッチャイ隊として何か宣伝やろうって話になって、願ったり叶ったりというか。「ヤッチャイ隊」って言葉通り、言われる前にやりたいことを勝手に「やっちゃう」感じで、やってみたら、めっちゃ面白かったんです! それまで音まちの宣伝をするときに1軒1軒お店を回ってお願いしたりして苦労して宣伝していたのですが、演奏しながらチラシを配ったらめっちゃハケルんですよ。つたない演奏なのに、みんな笑顔で振り返ってくれるし。

それまで演奏はしてもマニアックな曲ばかりで、人気のある曲をやったことがなかったのですが、あまちゃんなど、みんなが知ってる曲をやったらとても喜ばれて、もっとやりたい、やるべきだってことになって。その後も、音まちに限らず、出動するようになりました。

今のチームはだいたい10人くらいいますが、ときどき練習もします。それも楽しいんです。ちょっと変わった場所がみんな好きで(笑)、北千住駅東口の花絵ってカラオケボックスはよく行きます。おばちゃんがお菓子やおにぎり出してくれたりするアットホームなカラオケで(笑)。

今、チンドンのメンバーの関係がすごくいい感じなんです。音まちの人もいるし、音まちに関係ない人もいて、バランスよく集まっている。みんなチンドンがすごく面白くて集中してるんだけど、みんなそれぞれ他の世界も持っていて、このチンドンだけがすべてではないとも思っている。そういうことがわかっている大人の関係なので、すごく過ごしやすい。

人間関係ができてきて、このところ、思いとは裏腹に、ちょっとどっぷりかかわるようになってきたと思います。

○動かなければ何も起こらない
チンドンだったり、練習だったり、たこテラス(※7)の当番だったり、なんだかんだで毎週千住に来るようになって。葛藤もあるんですけど、何か選択肢があったとき、やるかやらないかといえば、できるのなら僕は「やる」ほうを選択します。やりたい気持ちがあれば、行きたい気持ちがあれば、行けばそこで何かが起こる。行かないことには何も起こらないから、今はそれを大事にしています。何かを目指しているのではなくて、今は、転がっていくほうにあるものに期待をしている。音楽も一回やめていたけど、またやり始めて無理している部分もあるけど、少し無理しないとできないこともあるから。今はヤッチャイ隊に限らず活動全体が上がっていて、自分の中の濃度がヤバイ。ちょっとふっきれてる気がします。

そうやって、一歩前に、外に出ることによって出会いがあって、広がっていく可能性があって、流れに身を任せていることが面白い。今、すごく幸せな環境にいられるんです。

音まちは自分にとっては、2011年から2016年という短い間の、人生のきっかけのひとつでしかないのだけれど、人との出会いがたくさんあり、何かを変えるきっかけがたくさんあった。まず人間関係でつながりができ、それからチンドンがきっかけでもう一度演奏もするようになり、そのことでもっとつながりが強くなってきている。今までの自分の経験や人生ともつながってきている。

僕は地元ではないけど、音まちのやることはいつも気になっていて、音楽とまちとの関わりには興味がある。ライブハウスのようなハコの中のコミュニティじゃないところでの音楽のあり方っていうか。音楽を演奏する人間は、場所は別にどこでもいいんですよ。たとえば老舗のクラブでも演奏する人も、ずっとそこで演奏しているわけじゃない。ミュージシャンって、いろんな場所で演奏するし、常に動いていくものだと思う。移動しながら演奏することは、音楽の持つ自然な性質みたいなものなんじゃないかと思うと、チンドンは、そういう音楽の自然な姿のひとつかなと思ったりします。

ものごとにはタイミングってあると思うんです。平塚に住んでいますが、音まちを通して知り合った、今のパートナーの動き方によっては、そのうちこっち(千住)に来ちゃうかもと思ったり。でもそれじゃ、できすぎた話なので、それが到達点になっちゃうとまた違うことを始めたくなっちゃう気がするので、やはり流れに身を任せるのかな(笑)。

千住は、住んではいないけど、今は仮住まいくらいの感覚にはなっています。千住のまちに対して? 「愛」って先に言ってしまってもいいのかなって(笑)。

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※1.大友良英: 即興演奏家として世界各地で活動。また映画や、NHK連続テレビ小説「あまちゃん」の音楽等、数多くの映像作品の音楽を手がけ、その数は70作品を超える。音まち千住の縁では、2011年〜2015年まで「千住フライングオーケストラ」の監修を行う。http://aaa-senju.com/2014/otomo

※2.足立智美「ぬぉ」:2011年のイベント。 http://aaa-senju.com/2011/event
※3.音う風屋:2012年夏〜2016年夏まで開いていた音まちの拠点
※4.神谷さん:元・音まち千住の縁 事務局長
※5.イドラ: 2013年のイベント。http://aaa-senju.com/2012/2323/
※6.Memorial Rebirth千住2014太郎山: 2014年のイベント。http://aaa-senju.com/2014/ohmaki
※7.たこテラス:ヤッチャイ隊の有志が運営する空き家を活用したコミュニティスペース

2016.1.7

【音まちかわら版】ワクワクする。そこから、まちが変わる。[遠田 節](2016.01.07)

ワクワクする。そこから、まちが変わる。[遠田 節 おんだ たかし]

足立区生涯学習振興公社 学習事業部 放課後子ども教室地域担当。文化事業に携わること早20年。
その豊かな経験と人脈で、音まち発足時から心強いアドバイザーとして協力。
千住だじゃれ音楽祭には完璧なオヤジギャクを提供、トーク企画にもスピーカーとして登壇し、「千住の1010人」で音楽隊デビュー。
生まれ育った千住のこれまでとこれからを、楽しみつつ、あたたかい眼差しで見守っている。

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発行日=2016年1月7日

○めちゃくちゃ楽しかった
初めて出演者として音まちに参加したのは、2014年の「千住の1010人」※1です。参加者集めのお手伝いをしているうちに家で娘が幼稚園のとき吹いてた鍵盤ハーモニカを見つけて、「簡単そうだし、面白そう」と思って、自分も出ることにしたんです。それで東京藝大千住キャンパスで開かれた野村さんの鍵ハモワークショップに参加した。今は住まいは西新井ですが、千住で生まれ育ったので、そのとき、今の藝大千住キャンパスが45年前に千寿小学校だった頃、鼓笛隊として演奏したことを思い出した。「アートってすごい。45年の時を軽々と飛び越える」ってFacebookに書いた覚えがあります。「1010人」がすごく楽しかったっていうのがあったので、今年の「メモリバ」※2の音楽隊にも参加しました。

合奏の一部になるっていうのは、こんなに楽しいんだって、音まちで知りましたね。ものすごく緊張もしたけど本番もめちゃくちゃ楽しかった。自由にアレンジして弾いちゃう人もいたので、自分はメロディを見失わないように必死だったんですけど(笑)。

合奏って初めて会った人同士でも、人の音に耳を澄ませたり、合わせたり、すごく濃厚なコミュニケーションが生まれるんですね。スポーツでは経験済みでしたが、音楽は初体験でしたから新鮮でした。スポーツと違って音楽には勝ち負けがないでしょ。特に音まちは、経験がなくてもよくてハードルが低いし、例えば、すっとんきょうな音を出しても楽しい。その包容力はすごくて。「1010人」に至っては楽器が弾けなくてもよかった(笑)。失敗したらみんなに迷惑かけちゃうって参加を躊躇してる人もいると思いますが、なーんだ遠田さんでも出られるの、って思ってもらえたらいいかなって(笑)。

○アートにはゴミ拾いと同じ効果がある
1996年にスポーツ部から文化事業部に異動して、西新井のホールで事業担当になりましたが、専門的に学んできたわけではないので拠り所がなかったんです。それで、そのときの上司のアドバイスで、年間100本、色んな舞台を見たんです。100本は厳しかったですが、それでも何年も見続けて、西新井で自分が企画した事業もいれると1000本近く見たことになるかな。自分で実際に観たものと、そこでつながった人たちっていうのが自分の拠り所になっていった。その頃から自分なりに、アートには、よくわからないけど人やまちを変えていくすごいパワーがあると感じていて、まちの抱えている問題を解決するためのツールとして使うことを考えてきました。税金を投下しているわけだから、少なくとも自分たちはそれを信じてやるべきだと、いつも部下に話していました。

アートには人と人とをつなぐ力があるじゃないですか。だから地域の問題を解決する第一歩になる。それはラジオ体操や町内ゴミ拾い運動でもいいかもしれないけど、そこにアーティストが入って何か不思議なことが起きて人がつながっていったら、それは面白いし、力があると思う。

○おじさんたちがまちを変える!?
今、メモリバを支えるまちのおじさんたちの入れ込みようはすごいなと思いますね。彼らは、「町会長に頼まれたからやってやろう」っていうだけじゃなくて、「大巻伸嗣のメモリバ、すごいだろ」って自ら言う。こんなことが、こんなに早く起こるとは思ってなかった。お年寄りや子どもたち、世代を超えた層にも目が向くきっかけになっているし、おじさんたちがエリアを越えて関わってくれて、希薄になりつつあった絆が強くなったとしたらすごいことです。行政が旗振って「町会に入りましょう」って言ったってそうはうまくいかないじゃないですか。

自分にとっての音まち? ちょっと中途半端な立ち位置ですが、人集めなんかでスタッフに協力する楽しさと、純粋に観る楽しさ、もうひとつ音楽隊として参加する楽しさ、3本立てで楽しんじゃってるっていう感じですかね。

※1 千住の1010人:作曲家 野村誠を中心に展開している千住だじゃれ音楽祭が2014年10月に足立市場で開催したイベント。
※2 Memorial Rebirth 千住(通称:メモリバ):無数のシャボン玉によって、見慣れたまちなみを光の風景に変貌させるアート・パフォーマンス作品。2015年度は足立市場で開催。

2015.9.4

【音まちかわら版】千住のまちなかに絵本の文庫を作りたい [足立真利](2015.09.04)

千住のまちなかに絵本の文庫を作りたい [足立真利 あだち まり]

大学図書館司書。 宮城県出身、幼少期は親の転勤で引っ越しを繰り返す。
初めての一人暮らしは北千住で経験し、現在は松戸在住。
2012年から、音まちのボランティアサポーター「ヤッチャイ隊」に参加。
幼い頃から大好きな本に関わる仕事をするかたわら、
音まちの活動拠点「音う風屋」にも文庫を設立した。

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発行日=2015年9月4日

◯図書館が居場所だった
以前は一般企業に勤めていたんですが、今は大学図書館の司書をしています。学生さん相手なので、教育や指導の部分も大きいのですが、本に囲まれている仕事が夢だったので、叶っているのはありがたいです。

なんで本が好きになったのかと思い返すと、父の転勤で引越しが多く、引っ込み思案の方だったので最初はお友達がなかなかできなかった。そんな中、どこに行ってもあるのが図書館で、自然と居場所になっていったんですね。図書館なら1人で居ても不自然じゃなかったですから(笑)。そう、もっと小さい頃、仙台にいたのですが、家の近くに「おひさま文庫」という私設の文庫があって、母がよく連れて行ってくれた。あのときは当たり前と思っていたけど、自分の家を開放してものすごい数の本を置いて、地域の人に貸し出すってすごいですよね。それが私の原体験ですね。

◯北千住に暮らして
2009年に千葉の実家を出る転機がやってきて、千葉県民にとっては一番近い東京である北千住に引っ越しました。一人暮らしを始めて、隣の部屋の子とお友達になったりとか、どういう人が住んでるんだろうって、いろいろ地域に目が向くようになったんです。2011年に震災があったことは結構大きくて、生活や生き方についてすごく考えさせられました。この年は復興支援のボランティアに土日に一人で行っていて、忙しくしていました。

音まちと出会ったのは、2012年の3月、お客さんとして行った「風呂フェッショナル」でした。なんていうか、いろいろな概念がぶち壊されて。銭湯が会場とか、だじゃれとか、水着の人たちが楽器をしてたりとか。でも、すごい面白かったです、全部ひっくるめて。その後8月くらいの区報で「ヤッチャイ隊募集」っていうのを見て、お手伝いできるならって単純に思って、気軽に入りました。初めての活動では、足立市場でポップコーンを売りました(笑)。 いまは松戸に住んでいるんですけど、北千住は帰る場所って思ってます、未だに。北千住に行けば知ってるお店があったり、知ってる人たちがいたり、行けば誰かしらに会えて。久しぶりに行っても、元気?って、いつでも声かけてくれる人たちが待っている、よりどころになってます。

◯本は人がつながるツール
2012年に「ヤッチャイ大学(ヤ大)」が立ち上がって「音う風屋」(おとうふや)を毎週土日に開けていたんですが、その当番の人が自分の思いでやりたいことをやっていたんですね。それで私は、音う風屋に文庫を作ろうと思ったんです。楽しかったですね。自分がやりたい!って言ったことを面白がって、みんな賛同してくれるっていう環境が、社会とか会社には少ないから。会社で、これやりたい!って言っても、すぐには通らないですけど、ヤ大の場合はもう、それを一緒に面白がってくれる人たちがいっぱいいて。本棚作りたいって言ったときも、あっという間に集まったんですよ。みなさんそれぞれおうちで余っている本とか持ってきてくださいって言ったら、翌週には集まって、本棚に入りきらないくらいで。もう段ボールに在庫みたいになっちゃって。見出し作ったり、誰が持ってきたっていうのがわかった方が絶対楽しいと思って、持ってきてくれた方には帯にお勧めコメントを書いてもらったりしました。本の中に書いてあることをやってみよう企画で、ホットサンドの本を手にして、集まっているメンバーで近所の商店街に中身の具だけ買いに行って、とにかくパンに挟んで食べてみる、なんてこともしましたね(笑)。

私自身の原体験が文庫だったので、本を置けばその本に対して興味を持ってくれる人が集まって、地域の方と本を介して関われるかなと思ったんです。通りすがりの方が足を止めてくださって、中を覗いていただける余裕のある方は手にとって……「こんな系の本だったらうちにもあるよ」って言ってくれたりとか、「今度持ってきますね」って言ってくれたりということが実際にありました。

音う風屋が引っ越すことになって、文庫が未完成のままなのが心残りだったんですが、新拠点のたこテラスではぜひ絵本を集めた文庫を開きたいです。こどもは反応がすごく正直なので、楽しそうな気がします。自分が本に近づくきっかけになったような、そういう体験が出来る子を増やしたいって思っています。

2014.12.21

【音まちかわら版】千住はおもちゃ箱みたいなまち[能見ゆう子](2014.12.21)

千住はおもちゃ箱みたいなまち[能見ゆう子 のうみ ゆうこ]

松戸出身、千住在勤のデザイナー。「千住の1010人」では『1010人集め隊』として大活躍。
演奏会本番では紙ドラムの隊長も果たしたドラマー。
毎日、足立市場から直仕入れするお弁当屋さんに通っています。

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発行日=2014年12月21日

○バカバカしいことを本気でやるって楽しいのかも
高校を卒業後、勤めた印刷会社。当時は写植を切ったり貼ったりの世界でしたが楽しくて、その後も印刷・デザイン業界を歩いてきました。今は3人ばかりのコンサルティング会社なんですが、社長の「小さな会社を強くしたい」という男気に惚れて約3年前から働いています。2012年に会社が北千住に引っ越したのですが、まちとの関わりはお弁当を買いに行くくらいでした。

私って、ひとつのコミュニティだけではやっていられないタイプなんです。今までも、仕事をしながらプライベートでバンドやったり、スノボ女子チームで盛り上がったり。会社とうまくいかなくて自信喪失してしまったときは深夜にカラオケ屋でバイトしたりして。全然違う「もうひとつの顔」を持ってるって大事なんですよね。

○誰もが参加できて交われる音楽
音まちは、たまたまポストに入っていた区報で見つけました。音楽やアートは好きだったけど、少しハードルが高く感じて……。けど、まちとつながったら仕事にもつながるかもと思って、応募。実は最初は、遠巻きに見ていようと思っていました。「千住だじゃれ音楽祭」も「だじゃれ?サムイ……」って全然興味を持てなかったんです。でも、一流のヴァイオリニストがだじゃれに合わせて弾いているのを見て、本当に面白くて超爆笑した。「だじゃれが芸術になるんだ!」 って、見たことのない世界で、バカバカしいことを本気でやるって楽しいのかもと思いました。

そこで思い切って演奏に参加してみたら、楽器があってもなくても、1人でも、入れてもらえた。高校のときはドラムスやってましたけど、何かやろうと思うとメンバーを集めなくちゃいけない。あんなに自然に、誰もが参加できて、交われる音楽は、初めて経験したんです。それまではひっそり関わっていたのですが、「千住の1010人」をきっかけに変わりました。見るより参加したほうが絶対楽しいってわかったから、広めなきゃもったいない!って、「すっごい楽しいよ!」と言って回っていました。

そして、いつの間にか説明がスラスラいえるくらいに(笑)。本番もすーごい楽しかった。大人数での演奏はまたやれたらいいな。人を誘いやすいし、「人」と「アート」と「まち」を結びつけそうな感じがします。飲み横の仲間も、「まちの人も一緒に走り回ってて、すごく良かった」って言ってくれたんです。

○千住はおもちゃ箱みたい
芸大の子も、まちのおじさんも、区役所の方も、ひとつの目標に向かって頑張ってる。それが横につながっている。 学生のコタロウくんがトップで私たちが雑用とか、普通ありえないじゃないですか (笑)。みんないろんなスキルを持っていて、それが寄り集まることで面白いことを考えついて、絵を飾るとかじゃなく、人が動いてアートができていく。

仕事は自由にやらせてもらえて楽しいけれど、次のステップに向けて勉強している最中で。そんな自分にとって音まちは、「もうひとつの顔」を持てる大事な場だし、学びにもなる。でも、それだけじゃなくて、責任も感じるし、「育てる」ような気持ちを感じています。千住はルミネとマルイの印象しかなかったけれど、今は景色が違って見える。本町小の前を通ると、たくさんのシャボン玉を思い出してしみじみしたりして。千住はおもちゃ箱みたい。何かが起きそうなまちって感じかな、今の印象は。

2014.7.11

【音まちかわら版】とまってるのが嫌なの。タクシーだから。常に走っていたいの。[安喰悦久](2014.7.11)

とまってるのが嫌なの。タクシーだから。常に走っていたいの。[安喰悦久 あぐい よしひさ]

個人タクシー【安喰タクシー】運転手。千寿常東小学校「おやじの会」会長。
足立区に生まれ育ち、現在、柳原在住。
2013年10月に千寿常東小学校で開催されたシャボン玉を使ったプロジェクト
「メモリアルリバース千住2013常東」に、警備責任者として関わる。


発行日=2014年7月11日

○ひとり親だから
息子が3年生だからね。夜の仕事が続くと、一晩中電話がかかって来るんだ。3日目には玄関で「踏み切りです」って言って両手を広げて立ちふさがったりね。だから、今は夜はタクシーやってません。おやじの会や千寿ガーディアンズ、そして「音まち千住の縁」……、いろんなことに関わるようになったのは、ひとり親だからだよ。3歳のときから息子を一人で育てていて、それがなかったら関わっていなかったと思う。

息子が保育園に通っているとき、母親が育児拒否しちゃったから、話し出すのが遅くて、思うように言葉が出ないから手が出ちゃう。すると周りのお母さんたちから「お母さんのいない子でしょ?」みたいなことを言われるじゃない。それがきっかけで、どんどん保育園へ行くようになった。常東小学校に入ったときにはおやじの会っていうのがあって、ぜひお父さん達と一緒に活動したいなと思って入ったんだ。

大学と小学校を結びたい
そして、気がついたら「メモリバ」の警備責任者になっていたんだよね。校長先生からPTA会長にシャボン玉のイベントがある、と声がかかって、当時書記をやっていた僕にはPTA会長から話が来た。自分みたいなひとり親だと、子どもをあちこち連れていくこともできないし、近所でこういう、楽しめるイベントがあるのはいいよね、そう思って。いざ関わってみると、自分の子どもみたいな年齢の藝大生たちが一生懸命じゃない? 前向きで一生懸命やってる子を見ると胸を打たれるっていうか。

だけど、内容もまだまだ固まってないから、電大の学生が手伝いに来たって何をやったらいいかわからない。そういうのが多かったから、どんどん現場の親方になっていっちゃった。当日は会場整理で忙しくて、シャボン玉を見る暇がなかった。でも後で写真見るとさ、子どもたち、喜んでるよねえ。大人も子どもも、みんないい顔してる。写真見たとき、やってよかったなぁと思ったよ。

この前、常東小の土曜授業で、電大からロボット持って来て、ロボコンやったんだよね。この企画、俺が考えたんだ。息子と電大にロボコン見に行ったら、息子が夢中になっちゃったのがきっかけでさ。シャボン玉で知り合った電大の井筒先生に話したら、来てくれるって言うんで。大学と小学校を結びたい、というのはずっと思っていて。小学生も、自分の将来にはこういうのがあるんだってわかるわけじゃない。電大行ったらこういう世界がある、藝大行くとこういうことがあるってわかるじゃない。

○若い人がまちに関わるということ
関わってみてわかったのは、「音まち」は一人ひとり楽しんでやってるんだなってこと。千住は古いまちだから、町の行事に関わっているのは、昔から住んでいる人が多い。千住で一人暮らしをはじめたばかりの子が、音まちを通して、そんな人たちと友達になれたら素晴らしいよね。音まちは千寿ガーディアンズとも関わっているんだから、引っ越してきてわずか 1 ヶ月で、「千住で夜回りしてるおじさんならみんな知ってるよ」みたいなこともあり得るわけじゃない。

越して来てすぐの人が周りの人に挨拶できるま ちにしたいよね。とまってるのが嫌なの。タクシーだから、常に走っていたいの。「今度ね」って後回しにするのが嫌で。それで壁にあたっても、おやじの会の吉川さんとかが助けてくれる。周りの人がいいよ。意外と周りにアイディア持ったおじさん、おばさん達がいるからね。

2013.4.28

【音まちかわら版】「音まち」は大事な遊び場[胡舟ヒフミ](2013.04.28)

「音まち」は大事な遊び場[胡舟ヒフミ こしゅう ひふみ]

北海道出身。父親の仕事の関係で引越しが多く、道内のあちらこちらに住んだ。武蔵野美術大学(短期大学部)で空間演出デザインを専攻。大学では演劇に熱中していたが、卒業間際に大きな怪我をしたことがきっかけで、衣装やメイク、照明、音響、制作など舞台の裏方を経験。その後化粧品販売をしながらデザイン事務所で働き始め、フリーを経て現在は広告代理店でグラフィックデザイナー。趣味で踊りや朗読、「音まち」では、ヤッチャイ隊だけでなく事務局で野村企画「千住だじゃれ音楽祭」の担当。
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▲野村誠 千住だじゃれ音楽祭「千住の1010人」で鍵盤ハーモニカのパートリーダーを務める胡舟さん。(2014年10月12日)

○きっかけは銭湯の音楽会
ある日、知り合いの女性から突然電話がかかってきて、「胡舟、踊りやってたよね?踊りやってるなら水着とか大丈夫だよね?」って言われて(笑)。「とにかく見学だけでもいいから来てみて」と彼女に誘われるままに行ったのが、2012年1月の「野村誠ふろデュース・お風呂の音楽体験会」だったんですね。銭湯の湯船で「だじゃれ音楽」を演奏する企画でした。会場には、すでにやる気100%の水着姿の彼女がいて(笑)。とまどいもあったけれど参加してみたら面白かったので、その流れで3月の「風呂フェッショナルなコンサート」に出たんです。そのとき、デザインの仕事をしているという話をしたら、当日の「プログラム」ならぬ「ふろグラム」を頼まれた。続いて5月の「千住だじゃれウォーキング」のパンフレットもつくることになりました。それが「音まち」との関わりの転機でした。

○部活みたいなもの
そのうち「音まち」の「広報戦略会議」にも参加するようになり、野村誠さんの企画の事務局スタッフをやらないかと誘われ、8月から入ることになって。事務局をやるなら「音まち」の活動の最前線「ヤッチャイ隊」にも、と思って登録したんです。当時、ヤッチャイ隊のメーリングリストは「飲み会情報」だと聞いて、それは楽しそうって(笑)。正直、ヤッチャイ隊の実体はよくわからなかったのですけれど。

「音まち」の活動は、演奏者としても楽しいし、事務方としては楽しいだけでなく、自分の経験としても残っていく。両方やれる場というのがありがたいです。私にとって「音まち」は、部活みたいなものかな。仕事じゃないけれど責任はある。大変なこともあるけれど、自分が大事にしている遊び場で、行けば楽しい。そんな場所でしょうか。最近のヤッチャイ隊は、積極的に動く人たちがどんどん出てきて、実はちょっと取り残され感を覚えているところなのですが、これからヤッチャイ隊内部でもっといろいろな活動ができるといいなと思っています。

「音まち」の広報物は、その後も野村企画や子供向けのチラシなどのでザインをしています。アート寄りのかっこいいチラシをつくってくれる人はほかにいるので、どちらかというとちょっとベタに、自分が音まちのことを何も知らない人だったら、という視点でどうすれば伝わるかを考えてつくっています。これは事務局の人としてやっていることなのか、ヤッチャイ隊だからやっているのか自分でもよくわかりません。

常にやりたいこと、興味のあることしかやれないし、やらないので、楽しんではいますが、金銭面では納得できない気持ちもあります。プロとして仕事でやっている「デザイン」ですが、「音まち」ではボランティア。プロの人的資源をボランティアの名のもとにタダで使う。大学が関わっているとさらに、教えてやっている、育ててやっている、といった目線も感じるんです。それには違和感があるし「音まち」に限らず、アートプロジェクトの課題なんじゃないかと私は思います。

○千住のこと、もっと知りたい
昨年、足立区の柳原でできたつながりから、地元の神輿(ルビ:みこし)を担がせていただいたのですが、生まれて初めての新鮮な体験でした。商店街のおじさんやおばさんとのつき合いにも慣れていなくて。でも休憩時間に話をさせていただきながら神輿を担いでまちをまわるうちに「音まち」拠点の「音う風屋」は当初の予定ではルートになかったけれど、「ここまで来たんだから『音う風屋』にも寄ろう」と言ってくれた方がいて、音う風屋の前を通ってくれた。「音う風屋さん、音う風屋さん」って神輿をもみながら言ってくれて、嬉しかったですね。まちの人とまだまだ対等ではないと思うけれど、ちょっとずつ近くなっている感じがうれしい。

2013年1月の「千住だじゃれ音楽祭野村誠ピアノソロ・コンサートだじゃれ合戦つき」では、千住在住の書家の方に対戦で出ただじゃれを大きく書いていただいたのですが、その先生が書を掛け軸にしてプレゼントしてくださったんです。うれしかったです。まちの人と関わりがある、まちの人が何かしてくれようとする。そういうまちは、私にとって、千住だけですからね。

千住、好きですよ。いいまちだなあと思う。みんなにもっと知って、来てほしいです。私自身も、まだまだ知らないことが多いのでもっと知って、「このまち面白いんだよ」って胸を張って人に勧めたいなって思います。「音まち」は、今はまだイベントの一つひとつが「点」ですが、だんだん人のつながりもでき、「面」になってくるといいですね。そして「音まち」自体が、まちを構成する一要素、まちを彩るひとつになってくるといいなと思います。

取材・構成=足立区シティプロモーション課
発行日=2014年3月31日

2013.2.20

【音まちかわら版】2013.02.20「音楽を伝える」という永遠の宿題[小日山拓也]

「音楽を伝える」という永遠の宿題[小日山拓也 こひやま たくや]

5歳から足立区大谷田に在住。東京藝術大学美術学部絵画科(油画専攻)卒業。ギター、コントラバスから創作楽器まで、あらゆる楽器を弾きこなす。奇想天外なアイデアでつくる創作楽器も多数。「音まち」では、各企画の演奏者として、企画立案者として、ときには大工として活躍。「風呂フェッショナルなコンサート」では「風呂楽器」アイデアを大量に考案、製作。2013年の「未来楽器図書館」で創作した楽器も子供たちに人気を博した。現在、地域で子供向けの楽器をつくるワークショップに取り組む。
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▲千住いえまちプロジェクト×千住ヤッチャイ大学主催「千住まち寄席」での一場面。ヤッチャイ隊有志のちんどん屋、左端でフルートを演奏しているのが小日山さんです。(2015年1月24日)

○風変わり
高校が上野だったので、このとき初めて自分の育ってきた足立区から出て、区外の人と接し「足立区」を意識した。「治安が悪い」とか「喧嘩ばっかりしてる」とか「ブルーカラーの人が多い」とか言われたりもしたが、むしろそれが自分には面白かった。人と同じことが嫌いで、風変わりなものが好きなタイプなので、「足立区」は風変わりな自分の「アイコン」となった。実際には治安も悪いわけじゃないし、バイトなどで身近だった肉体労働者もいい人が多かったけれど。

2浪して入った東京藝大では油絵を専攻したが、大学を出てからは好きな音楽にのめりこんでいった。美術や音楽のジャンルで身を立てるのは簡単なことではない。高校時代から今にいたるまで、肉体労働系の高収入のバイトをしながら、自分のやりたいことをやるという道を選んだ。10代から20代は都会志向だった。藝大を目指したのもそんな気持ちの現れだったと思う。東京の一番進んでいるものばかりに目が向いていた。

「音まち」と出会うまでは、活動の中心は主に中央線沿線だった。高円寺や新宿に夜な夜な出向き、音楽を聴き、弾いた。そもそもオレの音楽は、自分の育った足立区では理解されない。そう思ってきた。藝大にいたときも、金属やガラクタを切ったり貼ったりコラージュしたりして、作品だか楽器だかわからないようなものをつくっていた。音楽も同じだ。クラシックもジャズも音楽は何でも好きだけれど、自分がたどり着いたのはフリージャズや即興音楽。いくつかのバンドをかけ持ちして、先鋭的な音楽を追求してきた。多くの人は理解してくれないけど、わかる奴だけわかればいい、オレはオレの好きなことをやる。そう思ってきた。自分について来ない人を突き放しながら、突っ走ってきた。逆に言うと、自分の芸が受け入れられる場所を探してさまよっていたともいえるかもしれない。

○「音まち」との出会い
「音まち」には、最初は2011年10月に千住の魚市場で開催された「ぬぉ」の演奏者として参加した。足立智美という有名な現代音楽家の作曲・監督、ということで、単純に面白そうだと思った。そのころは高円寺や新宿に出かけていたが、「活動の場が広がるかもしれない」。そんな軽い気持ちだった。「ぬぉ」では、普段は魚の取引がなされている市場を舞台に、集まった約70名の演奏者が持ち寄ったまったく統一感のないバラバラの楽器、楽器のない人は自分の身体や声、ペットボトルやゴミ袋を使った創作楽器を使って、さらに市場関係者による模擬ゼリなども織り込まれ、夕闇迫る広いコンクリートの空間に、これまでに見たこともない新しい音楽がつくり出された。一演奏者として、とにかく面白かった。

「ぬぉ」が終わって、しばらく経ってからのことだ。ものすごい後悔の念にさいなまれるようになった。「ぬぉ」でともに市場の舞台に立った演奏者たちの何人かとは連絡先を交換していたが、多くの人の連絡先がわからなくなってしまっていた。メンバーがものすごく魅力的で、分野は違ってもそれぞれが何かのスペシャリスト、面白い人たちばかりだったので、またぜひ会いたい、一緒に何かしたい。その気持ちがもう一度、「音まち」へのコンタクトを促した。「音まち」の中に入っていかなければ彼らと会えない。「音まち」の中に入ることで彼らと一緒に活動ができる。

そして企画運営メンバーとして、手伝いとして、ときに演奏者として、さまざまな形で「音まち」に関わり始めたのが、「ヤッチャイ隊」に入ったきっかけといえばきっかけだろう。今、「音まち」のメンバーでつくる「音まちバンド」がいくつかある。それぞれの活動拠点、たとえば新宿だったり、深川だったりに出かけていき、演奏をするというのを何度も行ってきた。そして、今後はこのユニークな「音まち」のメンバーで、足立区に、千住に戻って演奏したいと思う。

○地域とともに
自分は大谷田の団地で育ち、今も大谷田のマンション住まいなので、地域との関わりというものがまったくなかった。「音まち」で初めて商店街の中に「音う風屋」という拠点を持ち、地域の祭りに参加したり、商店街の抽選会を手伝ったりしている。正直言うと、自分は音楽やアートが好きなだけで、地域の祭りなどはどちらかというと苦手だ。でも「音まち」がまちなかのプロジェクトなので、地域と接点を持つようになって、これまで「わかる奴だけわかればいい」なんてつっぱっていたときには見えなかったいろいろなことが見えるようになってきたことに気づく。「どんな人も音楽は楽しめるもの」という原点に立ち戻ることができた。

自分の作品なんてわかってもらえるはずがないとある意味あきらめて40年生きてきたけれど、まちの人とじっくり話して、相手のことをしっかり見て、自分のつくるものや音楽に興味を示してもらえたとき、「私、これ好き」と気に入ってもらえたとき、また子供たちが楽しんでくれたとき。これまでの自分の音楽活動の中にはなかった面白さを感じる。「音まち」がまちなかの企画だから、という面もあるけれど、本当は自分でも昔から音楽の知識のない人にもアプローチしたかったのだと思う。ただ、面倒だと思って避けてきた。自分にとってはそれが永遠の「宿題」みたいなものだったのかもしれない。

取材・構成=足立区シティプロモーション課
発行日=2014年3月31日

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