2012.1.20
5.音まちで出会う、素敵な人々
2013年度作成した「音まち千住の縁 2011-2013 ドキュメント」に付属する「音まちすごろく」には、音まちのボランティアサポーター・ヤッチャイ隊へのインタビューが掲載されています。
また、2014年度からは、ヤッチャイ隊や街の協力者の方に、まちとの関わりや音まちへの思いをインタビューした広報誌「音まちかわら版」を不定期刊行しています。
本ページでは、安喰悦久さん、能見ゆう子さん、足立真利さん、遠田節さん、小日山拓也さん、胡舟ヒフミさん、杉山知孝さんのインタビューを全文掲載します。
●「音まちかわら版」
取材・構成=「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」事務局
とまってるのが嫌なの。タクシーだから。常に走っていたいの。[安喰悦久]
個人タクシー【安喰タクシー】運転手。千寿常東小学校「おやじの会」会長。
足立区に生まれ育ち、現在、柳原在住。
2013年10月に千寿常東小学校で開催されたシャボン玉を使ったプロジェクト
「メモリアルリバース千住2013常東」に、警備責任者として関わる。
発行日=2014年7月11日
○ひとり親だから
息子が3年生だからね。夜の仕事が続くと、一晩中電話がかかって来るんだ。3日目には玄関で「踏み切りです」って言って両手を広げて立ちふさがったりね。だから、今は夜はタクシーやってません。おやじの会や千寿ガーディアンズ、そして「音まち千住の縁」……、いろんなことに関わるようになったのは、ひとり親だからだよ。3歳のときから息子を一人で育てていて、それがなかったら関わっていなかったと思う。
息子が保育園に通っているとき、母親が育児拒否しちゃったから、話し出すのが遅くて、思うように言葉が出ないから手が出ちゃう。すると周りのお母さんたちから「お母さんのいない子でしょ?」みたいなことを言われるじゃない。それがきっかけで、どんどん保育園へ行くようになった。常東小学校に入ったときにはおやじの会っていうのがあって、ぜひお父さん達と一緒に活動したいなと思って入ったんだ。
大学と小学校を結びたい
そして、気がついたら「メモリバ」の警備責任者になっていたんだよね。校長先生からPTA会長にシャボン玉のイベントがある、と声がかかって、当時書記をやっていた僕にはPTA会長から話が来た。自分みたいなひとり親だと、子どもをあちこち連れていくこともできないし、近所でこういう、楽しめるイベントがあるのはいいよね、そう思って。いざ関わってみると、自分の子どもみたいな年齢の藝大生たちが一生懸命じゃない? 前向きで一生懸命やってる子を見ると胸を打たれるっていうか。
だけど、内容もまだまだ固まってないから、電大の学生が手伝いに来たって何をやったらいいかわからない。そういうのが多かったから、どんどん現場の親方になっていっちゃった。当日は会場整理で忙しくて、シャボン玉を見る暇がなかった。でも後で写真見るとさ、子どもたち、喜んでるよねえ。大人も子どもも、みんないい顔してる。写真見たとき、やってよかったなぁと思ったよ。
この前、常東小の土曜授業で、電大からロボット持って来て、ロボコンやったんだよね。この企画、俺が考えたんだ。息子と電大にロボコン見に行ったら、息子が夢中になっちゃったのがきっかけでさ。シャボン玉で知り合った電大の井筒先生に話したら、来てくれるって言うんで。大学と小学校を結びたい、というのはずっと思っていて。小学生も、自分の将来にはこういうのがあるんだってわかるわけじゃない。電大行ったらこういう世界がある、藝大行くとこういうことがあるってわかるじゃない。
○若い人がまちに関わるということ
関わってみてわかったのは、「音まち」は一人ひとり楽しんでやってるんだなってこと。千住は古いまちだから、町の行事に関わっているのは、昔から住んでいる人が多い。千住で一人暮らしをはじめたばかりの子が、音まちを通して、そんな人たちと友達になれたら素晴らしいよね。音まちは千寿ガーディアンズとも関わっているんだから、引っ越してきてわずか 1 ヶ月で、「千住で夜回りしてるおじさんならみんな知ってるよ」みたいなこともあり得るわけじゃない。
越して来てすぐの人が周りの人に挨拶できるま ちにしたいよね。とまってるのが嫌なの。タクシーだから、常に走っていたいの。「今度ね」って後回しにするのが嫌で。それで壁にあたっても、おやじの会の吉川さんとかが助けてくれる。周りの人がいいよ。意外と周りにアイディア持ったおじさん、おばさん達がいるからね。
千住はおもちゃ箱みたいなまち[能見ゆう子]
松戸出身、千住在勤のデザイナー。「千住の1010人」では『1010人集め隊』として大活躍。
演奏会本番では紙ドラムの隊長も果たしたドラマー。
毎日、足立市場から直仕入れするお弁当屋さんに通っています。
発行日=2014年12月21日
○バカバカしいことを本気でやるって楽しいのかも
高校を卒業後、勤めた印刷会社。当時は写植を切ったり貼ったりの世界でしたが楽しくて、その後も印刷・デザイン業界を歩いてきました。今は3人ばかりのコンサルティング会社なんですが、社長の「小さな会社を強くしたい」という男気に惚れて約3年前から働いています。2012年に会社が北千住に引っ越したのですが、まちとの関わりはお弁当を買いに行くくらいでした。
私って、ひとつのコミュニティだけではやっていられないタイプなんです。今までも、仕事をしながらプライベートでバンドやったり、スノボ女子チームで盛り上がったり。会社とうまくいかなくて自信喪失してしまったときは深夜にカラオケ屋でバイトしたりして。全然違う「もうひとつの顔」を持ってるって大事なんですよね。
○誰もが参加できて交われる音楽
音まちは、たまたまポストに入っていた区報で見つけました。音楽やアートは好きだったけど、少しハードルが高く感じて……。けど、まちとつながったら仕事にもつながるかもと思って、応募。実は最初は、遠巻きに見ていようと思っていました。「千住だじゃれ音楽祭」も「だじゃれ?サムイ……」って全然興味を持てなかったんです。でも、一流のヴァイオリニストがだじゃれに合わせて弾いているのを見て、本当に面白くて超爆笑した。「だじゃれが芸術になるんだ!」 って、見たことのない世界で、バカバカしいことを本気でやるって楽しいのかもと思いました。
そこで思い切って演奏に参加してみたら、楽器があってもなくても、1人でも、入れてもらえた。高校のときはドラムスやってましたけど、何かやろうと思うとメンバーを集めなくちゃいけない。あんなに自然に、誰もが参加できて、交われる音楽は、初めて経験したんです。それまではひっそり関わっていたのですが、「千住の1010人」をきっかけに変わりました。見るより参加したほうが絶対楽しいってわかったから、広めなきゃもったいない!って、「すっごい楽しいよ!」と言って回っていました。
そして、いつの間にか説明がスラスラいえるくらいに(笑)。本番もすーごい楽しかった。大人数での演奏はまたやれたらいいな。人を誘いやすいし、「人」と「アート」と「まち」を結びつけそうな感じがします。飲み横の仲間も、「まちの人も一緒に走り回ってて、すごく良かった」って言ってくれたんです。
○千住はおもちゃ箱みたい
芸大の子も、まちのおじさんも、区役所の方も、ひとつの目標に向かって頑張ってる。それが横につながっている。 学生のコタロウくんがトップで私たちが雑用とか、普通ありえないじゃないですか (笑)。みんないろんなスキルを持っていて、それが寄り集まることで面白いことを考えついて、絵を飾るとかじゃなく、人が動いてアートができていく。
仕事は自由にやらせてもらえて楽しいけれど、次のステップに向けて勉強している最中で。そんな自分にとって音まちは、「もうひとつの顔」を持てる大事な場だし、学びにもなる。でも、それだけじゃなくて、責任も感じるし、「育てる」ような気持ちを感じています。千住はルミネとマルイの印象しかなかったけれど、今は景色が違って見える。本町小の前を通ると、たくさんのシャボン玉を思い出してしみじみしたりして。千住はおもちゃ箱みたい。何かが起きそうなまちって感じかな、今の印象は。
千住のまちなかに絵本の文庫を作りたい [足立真利]
大学図書館司書。 宮城県出身、幼少期は親の転勤で引っ越しを繰り返す。
初めての一人暮らしは北千住で経験し、現在は松戸在住。
2012年から、音まちのボランティアサポーター「ヤッチャイ隊」に参加。
幼い頃から大好きな本に関わる仕事をするかたわら、
音まちの活動拠点「音う風屋」にも文庫を設立した。
発行日=2015年9月4日
◯図書館が居場所だった
以前は一般企業に勤めていたんですが、今は大学図書館の司書をしています。学生さん相手なので、教育や指導の部分も大きいのですが、本に囲まれている仕事が夢だったので、叶っているのはありがたいです。
なんで本が好きになったのかと思い返すと、父の転勤で引越しが多く、引っ込み思案の方だったので最初はお友達がなかなかできなかった。そんな中、どこに行ってもあるのが図書館で、自然と居場所になっていったんですね。図書館なら1人で居ても不自然じゃなかったですから(笑)。そう、もっと小さい頃、仙台にいたのですが、家の近くに「おひさま文庫」という私設の文庫があって、母がよく連れて行ってくれた。あのときは当たり前と思っていたけど、自分の家を開放してものすごい数の本を置いて、地域の人に貸し出すってすごいですよね。それが私の原体験ですね。
◯北千住に暮らして
2009年に千葉の実家を出る転機がやってきて、千葉県民にとっては一番近い東京である北千住に引っ越しました。一人暮らしを始めて、隣の部屋の子とお友達になったりとか、どういう人が住んでるんだろうって、いろいろ地域に目が向くようになったんです。2011年に震災があったことは結構大きくて、生活や生き方についてすごく考えさせられました。この年は復興支援のボランティアに土日に一人で行っていて、忙しくしていました。
音まちと出会ったのは、2012年の3月、お客さんとして行った「風呂フェッショナル」でした。なんていうか、いろいろな概念がぶち壊されて。銭湯が会場とか、だじゃれとか、水着の人たちが楽器をしてたりとか。でも、すごい面白かったです、全部ひっくるめて。その後8月くらいの区報で「ヤッチャイ隊募集」っていうのを見て、お手伝いできるならって単純に思って、気軽に入りました。初めての活動では、足立市場でポップコーンを売りました(笑)。 いまは松戸に住んでいるんですけど、北千住は帰る場所って思ってます、未だに。北千住に行けば知ってるお店があったり、知ってる人たちがいたり、行けば誰かしらに会えて。久しぶりに行っても、元気?って、いつでも声かけてくれる人たちが待っている、よりどころになってます。
◯本は人がつながるツール
2012年に「ヤッチャイ大学(ヤ大)」が立ち上がって「音う風屋」(おとうふや)を毎週土日に開けていたんですが、その当番の人が自分の思いでやりたいことをやっていたんですね。それで私は、音う風屋に文庫を作ろうと思ったんです。楽しかったですね。自分がやりたい!って言ったことを面白がって、みんな賛同してくれるっていう環境が、社会とか会社には少ないから。会社で、これやりたい!って言っても、すぐには通らないですけど、ヤ大の場合はもう、それを一緒に面白がってくれる人たちがいっぱいいて。本棚作りたいって言ったときも、あっという間に集まったんですよ。みなさんそれぞれおうちで余っている本とか持ってきてくださいって言ったら、翌週には集まって、本棚に入りきらないくらいで。もう段ボールに在庫みたいになっちゃって。見出し作ったり、誰が持ってきたっていうのがわかった方が絶対楽しいと思って、持ってきてくれた方には帯にお勧めコメントを書いてもらったりしました。本の中に書いてあることをやってみよう企画で、ホットサンドの本を手にして、集まっているメンバーで近所の商店街に中身の具だけ買いに行って、とにかくパンに挟んで食べてみる、なんてこともしましたね(笑)。
私自身の原体験が文庫だったので、本を置けばその本に対して興味を持ってくれる人が集まって、地域の方と本を介して関われるかなと思ったんです。通りすがりの方が足を止めてくださって、中を覗いていただける余裕のある方は手にとって……「こんな系の本だったらうちにもあるよ」って言ってくれたりとか、「今度持ってきますね」って言ってくれたりということが実際にありました。
音う風屋が引っ越すことになって、文庫が未完成のままなのが心残りだったんですが、新拠点のたこテラスではぜひ絵本を集めた文庫を開きたいです。こどもは反応がすごく正直なので、楽しそうな気がします。自分が本に近づくきっかけになったような、そういう体験が出来る子を増やしたいって思っています。
ワクワクする。そこから、まちが変わる。[遠田節]
足立区生涯学習振興公社 学習事業部 放課後子ども教室地域担当。文化事業に携わること早20年。
その豊かな経験と人脈で、音まち発足時から心強いアドバイザーとして協力。
千住だじゃれ音楽祭には完璧なオヤジギャクを提供、トーク企画にもスピーカーとして登壇し、「千住の1010人」で音楽隊デビュー。
生まれ育った千住のこれまでとこれからを、楽しみつつ、あたたかい眼差しで見守っている。
発行日=2016年1月7日
○めちゃくちゃ楽しかった
初めて出演者として音まちに参加したのは、2014年の「千住の1010人」※1です。参加者集めのお手伝いをしているうちに家で娘が幼稚園のとき吹いてた鍵盤ハーモニカを見つけて、「簡単そうだし、面白そう」と思って、自分も出ることにしたんです。それで東京藝大千住キャンパスで開かれた野村さんの鍵ハモワークショップに参加した。今は住まいは西新井ですが、千住で生まれ育ったので、そのとき、今の藝大千住キャンパスが45年前に千寿小学校だった頃、鼓笛隊として演奏したことを思い出した。「アートってすごい。45年の時を軽々と飛び越える」ってFacebookに書いた覚えがあります。「1010人」がすごく楽しかったっていうのがあったので、今年の「メモリバ」※2の音楽隊にも参加しました。
合奏の一部になるっていうのは、こんなに楽しいんだって、音まちで知りましたね。ものすごく緊張もしたけど本番もめちゃくちゃ楽しかった。自由にアレンジして弾いちゃう人もいたので、自分はメロディを見失わないように必死だったんですけど(笑)。
合奏って初めて会った人同士でも、人の音に耳を澄ませたり、合わせたり、すごく濃厚なコミュニケーションが生まれるんですね。スポーツでは経験済みでしたが、音楽は初体験でしたから新鮮でした。スポーツと違って音楽には勝ち負けがないでしょ。特に音まちは、経験がなくてもよくてハードルが低いし、例えば、すっとんきょうな音を出しても楽しい。その包容力はすごくて。「1010人」に至っては楽器が弾けなくてもよかった(笑)。失敗したらみんなに迷惑かけちゃうって参加を躊躇してる人もいると思いますが、なーんだ遠田さんでも出られるの、って思ってもらえたらいいかなって(笑)。
○アートにはゴミ拾いと同じ効果がある
1996年にスポーツ部から文化事業部に異動して、西新井のホールで事業担当になりましたが、専門的に学んできたわけではないので拠り所がなかったんです。それで、そのときの上司のアドバイスで、年間100本、色んな舞台を見たんです。100本は厳しかったですが、それでも何年も見続けて、西新井で自分が企画した事業もいれると1000本近く見たことになるかな。自分で実際に観たものと、そこでつながった人たちっていうのが自分の拠り所になっていった。その頃から自分なりに、アートには、よくわからないけど人やまちを変えていくすごいパワーがあると感じていて、まちの抱えている問題を解決するためのツールとして使うことを考えてきました。税金を投下しているわけだから、少なくとも自分たちはそれを信じてやるべきだと、いつも部下に話していました。
アートには人と人とをつなぐ力があるじゃないですか。だから地域の問題を解決する第一歩になる。それはラジオ体操や町内ゴミ拾い運動でもいいかもしれないけど、そこにアーティストが入って何か不思議なことが起きて人がつながっていったら、それは面白いし、力があると思う。
○おじさんたちがまちを変える!?
今、メモリバを支えるまちのおじさんたちの入れ込みようはすごいなと思いますね。彼らは、「町会長に頼まれたからやってやろう」っていうだけじゃなくて、「大巻伸嗣のメモリバ、すごいだろ」って自ら言う。こんなことが、こんなに早く起こるとは思ってなかった。お年寄りや子どもたち、世代を超えた層にも目が向くきっかけになっているし、おじさんたちがエリアを越えて関わってくれて、希薄になりつつあった絆が強くなったとしたらすごいことです。行政が旗振って「町会に入りましょう」って言ったってそうはうまくいかないじゃないですか。
自分にとっての音まち? ちょっと中途半端な立ち位置ですが、人集めなんかでスタッフに協力する楽しさと、純粋に観る楽しさ、もうひとつ音楽隊として参加する楽しさ、3本立てで楽しんじゃってるっていう感じですかね。
※1 千住の1010人:作曲家 野村誠を中心に展開している千住だじゃれ音楽祭が2014年10月に足立市場で開催したイベント。
※2 Memorial Rebirth 千住(通称:メモリバ):無数のシャボン玉によって、見慣れたまちなみを光の風景に変貌させるアート・パフォーマンス作品。2015年度は足立市場で開催。
●「音まち」を支えるサポーター「ヤッチャイ隊」に聞く
取材・構成=足立区シティプロモーション課
発行日=2014年3月31日
「音楽を伝える」という永遠の宿題[小日山拓也]
5歳から足立区大谷田に在住。東京藝術大学美術学部絵画科(油画専攻)卒業。ギター、コントラバスから創作楽器まで、あらゆる楽器を弾きこなす。奇想天外なアイデアでつくる創作楽器も多数。「音まち」では、各企画の演奏者として、企画立案者として、ときには大工として活躍。「風呂フェッショナルなコンサート」では「風呂楽器」アイデアを大量に考案、製作。2013年の「未来楽器図書館」で創作した楽器も子供たちに人気を博した。現在、地域で子供向けの楽器をつくるワークショップに取り組む。
▲千住いえまちプロジェクト×千住ヤッチャイ大学主催「千住まち寄席」での一場面。ヤッチャイ隊有志のちんどん屋、左端でフルートを演奏しているのが小日山さんです。(2015年1月24日)
○風変わり
高校が上野だったので、このとき初めて自分の育ってきた足立区から出て、区外の人と接し「足立区」を意識した。「治安が悪い」とか「喧嘩ばっかりしてる」とか「ブルーカラーの人が多い」とか言われたりもしたが、むしろそれが自分には面白かった。人と同じことが嫌いで、風変わりなものが好きなタイプなので、「足立区」は風変わりな自分の「アイコン」となった。実際には治安も悪いわけじゃないし、バイトなどで身近だった肉体労働者もいい人が多かったけれど。
2浪して入った東京藝大では油絵を専攻したが、大学を出てからは好きな音楽にのめりこんでいった。美術や音楽のジャンルで身を立てるのは簡単なことではない。高校時代から今にいたるまで、肉体労働系の高収入のバイトをしながら、自分のやりたいことをやるという道を選んだ。10代から20代は都会志向だった。藝大を目指したのもそんな気持ちの現れだったと思う。東京の一番進んでいるものばかりに目が向いていた。
「音まち」と出会うまでは、活動の中心は主に中央線沿線だった。高円寺や新宿に夜な夜な出向き、音楽を聴き、弾いた。そもそもオレの音楽は、自分の育った足立区では理解されない。そう思ってきた。藝大にいたときも、金属やガラクタを切ったり貼ったりコラージュしたりして、作品だか楽器だかわからないようなものをつくっていた。音楽も同じだ。クラシックもジャズも音楽は何でも好きだけれど、自分がたどり着いたのはフリージャズや即興音楽。いくつかのバンドをかけ持ちして、先鋭的な音楽を追求してきた。多くの人は理解してくれないけど、わかる奴だけわかればいい、オレはオレの好きなことをやる。そう思ってきた。自分について来ない人を突き放しながら、突っ走ってきた。逆に言うと、自分の芸が受け入れられる場所を探してさまよっていたともいえるかもしれない。
○「音まち」との出会い
「音まち」には、最初は2011年10月に千住の魚市場で開催された「ぬぉ」の演奏者として参加した。足立智美という有名な現代音楽家の作曲・監督、ということで、単純に面白そうだと思った。そのころは高円寺や新宿に出かけていたが、「活動の場が広がるかもしれない」。そんな軽い気持ちだった。「ぬぉ」では、普段は魚の取引がなされている市場を舞台に、集まった約70名の演奏者が持ち寄ったまったく統一感のないバラバラの楽器、楽器のない人は自分の身体や声、ペットボトルやゴミ袋を使った創作楽器を使って、さらに市場関係者による模擬ゼリなども織り込まれ、夕闇迫る広いコンクリートの空間に、これまでに見たこともない新しい音楽がつくり出された。一演奏者として、とにかく面白かった。
「ぬぉ」が終わって、しばらく経ってからのことだ。ものすごい後悔の念にさいなまれるようになった。「ぬぉ」でともに市場の舞台に立った演奏者たちの何人かとは連絡先を交換していたが、多くの人の連絡先がわからなくなってしまっていた。メンバーがものすごく魅力的で、分野は違ってもそれぞれが何かのスペシャリスト、面白い人たちばかりだったので、またぜひ会いたい、一緒に何かしたい。その気持ちがもう一度、「音まち」へのコンタクトを促した。「音まち」の中に入っていかなければ彼らと会えない。「音まち」の中に入ることで彼らと一緒に活動ができる。
そして企画運営メンバーとして、手伝いとして、ときに演奏者として、さまざまな形で「音まち」に関わり始めたのが、「ヤッチャイ隊」に入ったきっかけといえばきっかけだろう。今、「音まち」のメンバーでつくる「音まちバンド」がいくつかある。それぞれの活動拠点、たとえば新宿だったり、深川だったりに出かけていき、演奏をするというのを何度も行ってきた。そして、今後はこのユニークな「音まち」のメンバーで、足立区に、千住に戻って演奏したいと思う。
○地域とともに
自分は大谷田の団地で育ち、今も大谷田のマンション住まいなので、地域との関わりというものがまったくなかった。「音まち」で初めて商店街の中に「音う風屋」という拠点を持ち、地域の祭りに参加したり、商店街の抽選会を手伝ったりしている。正直言うと、自分は音楽やアートが好きなだけで、地域の祭りなどはどちらかというと苦手だ。でも「音まち」がまちなかのプロジェクトなので、地域と接点を持つようになって、これまで「わかる奴だけわかればいい」なんてつっぱっていたときには見えなかったいろいろなことが見えるようになってきたことに気づく。「どんな人も音楽は楽しめるもの」という原点に立ち戻ることができた。
自分の作品なんてわかってもらえるはずがないとある意味あきらめて40年生きてきたけれど、まちの人とじっくり話して、相手のことをしっかり見て、自分のつくるものや音楽に興味を示してもらえたとき、「私、これ好き」と気に入ってもらえたとき、また子供たちが楽しんでくれたとき。これまでの自分の音楽活動の中にはなかった面白さを感じる。「音まち」がまちなかの企画だから、という面もあるけれど、本当は自分でも昔から音楽の知識のない人にもアプローチしたかったのだと思う。ただ、面倒だと思って避けてきた。自分にとってはそれが永遠の「宿題」みたいなものだったのかもしれない。
「音まち」は大事な遊び場[胡舟ヒフミ]
北海道出身。父親の仕事の関係で引越しが多く、道内のあちらこちらに住んだ。武蔵野美術大学(短期大学部)で空間演出デザインを専攻。大学では演劇に熱中していたが、卒業間際に大きな怪我をしたことがきっかけで、衣装やメイク、照明、音響、制作など舞台の裏方を経験。その後化粧品販売をしながらデザイン事務所で働き始め、フリーを経て現在は広告代理店でグラフィックデザイナー。趣味で踊りや朗読、「音まち」では、ヤッチャイ隊だけでなく事務局で野村企画「千住だじゃれ音楽祭」の担当。
▲野村誠 千住だじゃれ音楽祭「千住の1010人」で鍵盤ハーモニカのパートリーダーを務める胡舟さん。(2014年10月12日)
○きっかけは銭湯の音楽会
ある日、知り合いの女性から突然電話がかかってきて、「胡舟、踊りやってたよね?踊りやってるなら水着とか大丈夫だよね?」って言われて(笑)。「とにかく見学だけでもいいから来てみて」と彼女に誘われるままに行ったのが、2012年1月の「野村誠ふろデュース・お風呂の音楽体験会」だったんですね。銭湯の湯船で「だじゃれ音楽」を演奏する企画でした。会場には、すでにやる気100%の水着姿の彼女がいて(笑)。とまどいもあったけれど参加してみたら面白かったので、その流れで3月の「風呂フェッショナルなコンサート」に出たんです。そのとき、デザインの仕事をしているという話をしたら、当日の「プログラム」ならぬ「ふろグラム」を頼まれた。続いて5月の「千住だじゃれウォーキング」のパンフレットもつくることになりました。それが「音まち」との関わりの転機でした。
○部活みたいなもの
そのうち「音まち」の「広報戦略会議」にも参加するようになり、野村誠さんの企画の事務局スタッフをやらないかと誘われ、8月から入ることになって。事務局をやるなら「音まち」の活動の最前線「ヤッチャイ隊」にも、と思って登録したんです。当時、ヤッチャイ隊のメーリングリストは「飲み会情報」だと聞いて、それは楽しそうって(笑)。正直、ヤッチャイ隊の実体はよくわからなかったのですけれど。
「音まち」の活動は、演奏者としても楽しいし、事務方としては楽しいだけでなく、自分の経験としても残っていく。両方やれる場というのがありがたいです。私にとって「音まち」は、部活みたいなものかな。仕事じゃないけれど責任はある。大変なこともあるけれど、自分が大事にしている遊び場で、行けば楽しい。そんな場所でしょうか。最近のヤッチャイ隊は、積極的に動く人たちがどんどん出てきて、実はちょっと取り残され感を覚えているところなのですが、これからヤッチャイ隊内部でもっといろいろな活動ができるといいなと思っています。
「音まち」の広報物は、その後も野村企画や子供向けのチラシなどのでザインをしています。アート寄りのかっこいいチラシをつくってくれる人はほかにいるので、どちらかというとちょっとベタに、自分が音まちのことを何も知らない人だったら、という視点でどうすれば伝わるかを考えてつくっています。これは事務局の人としてやっていることなのか、ヤッチャイ隊だからやっているのか自分でもよくわかりません。
常にやりたいこと、興味のあることしかやれないし、やらないので、楽しんではいますが、金銭面では納得できない気持ちもあります。プロとして仕事でやっている「デザイン」ですが、「音まち」ではボランティア。プロの人的資源をボランティアの名のもとにタダで使う。大学が関わっているとさらに、教えてやっている、育ててやっている、といった目線も感じるんです。それには違和感があるし「音まち」に限らず、アートプロジェクトの課題なんじゃないかと私は思います。
○千住のこと、もっと知りたい
昨年、足立区の柳原でできたつながりから、地元の神輿(ルビ:みこし)を担がせていただいたのですが、生まれて初めての新鮮な体験でした。商店街のおじさんやおばさんとのつき合いにも慣れていなくて。でも休憩時間に話をさせていただきながら神輿を担いでまちをまわるうちに「音まち」拠点の「音う風屋」は当初の予定ではルートになかったけれど、「ここまで来たんだから『音う風屋』にも寄ろう」と言ってくれた方がいて、音う風屋の前を通ってくれた。「音う風屋さん、音う風屋さん」って神輿をもみながら言ってくれて、嬉しかったですね。まちの人とまだまだ対等ではないと思うけれど、ちょっとずつ近くなっている感じがうれしい。
2013年1月の「千住だじゃれ音楽祭野村誠ピアノソロ・コンサートだじゃれ合戦つき」では、千住在住の書家の方に対戦で出ただじゃれを大きく書いていただいたのですが、その先生が書を掛け軸にしてプレゼントしてくださったんです。うれしかったです。まちの人と関わりがある、まちの人が何かしてくれようとする。そういうまちは、私にとって、千住だけですからね。
千住、好きですよ。いいまちだなあと思う。みんなにもっと知って、来てほしいです。私自身も、まだまだ知らないことが多いのでもっと知って、「このまち面白いんだよ」って胸を張って人に勧めたいなって思います。「音まち」は、今はまだイベントの一つひとつが「点」ですが、だんだん人のつながりもでき、「面」になってくるといいですね。そして「音まち」自体が、まちを構成する一要素、まちを彩るひとつになってくるといいなと思います。
「音まち」の仲間の後押しで訪れた転機[杉山知孝]
足立区生まれ、足立区在住。区立弥生小学校を卒業後、中高は区外の私立学校へ。中高で素晴らしい恩師に恵まれ感銘を受け、得意だった数学の教師を目指すが、教員採用試験合格前に「早く就職しろ」という周囲の声に押されて、ホテルの裏方の仕事につく。その後、何社かを経て現在は社会福祉関係の財団で働く。「音まち」には2012年5月の「千住だじゃれウォーキング」をきっかけに参加。その後演奏者として、また裏方スタッフとして、さまざまな形で関わっている。
○「音まち」に驚いた
僕はずっとクラシックの楽団に所属してきたのですが、十数年前に同じ楽団にいた友人にしばらくぶりに会ったとき「音まちって知ってる?」と聞かれた。僕も通勤途中でつくばエクスプレス・北千住駅の入り口にある足立区の広報スタンドでチラシを見たことがあって、そのことを話したら「そう!それそれ!」って盛り上がって。
ちょうど所属していた楽団が解散したタイミングで、時間もあったので「何をやるんだろう?」って、興味本位で野村誠さんの「千住だじゃれウォーキング」に参加したのです。そうしたら、自分は足立区が地元のつもりでいたけれど、知らないことが多いことに気づいて。そういえば宿場町通り自体、昼間はほとんど歩いたことがなかったし、かつて知っていた店もけっこう入れ替わっていて、発見がたくさんあった。新旧いろいろな店があるんだなあとか、通りの裏側に蔵があるとか、いろいろなものが混在しているんだなあとか。いつもと違う方向からまちを見たことがすごく楽しかったんです。
そしてクラシック畑で来た自分には、野村誠さんの作曲法が何よりの驚きでした。まち歩きの中継地・氷川神社の社務所で、皆で出し合っただじゃれで歌詞を組み立てたら、野村さんは「ドレミファソラシ7音のうち2音を外してくれ」と言う。その2音を参加者が選ぶと、「残りの5音の中から2音には『♯』をつけて」と、参加者に適当に音を選ばせて「♯」をつけ、その5音の中から参加者が選んだ音を次々と順番につなげていきました。それで社務所を出て藝大に行き「曲にしてくる」って。あとから藝大に行ったら本当に曲になっていた。
「あんな方法で本当に曲になるんだ」と心底驚いた。びっくりしました。楽しかったですね。それまで即興音楽というものにも触れたことがなかったし、今まで聴いたことも、接したこともない音楽でした。こんな世界があるんだと。区報も見たことがなかったので、地元でこんなことをやっていたんだ、ということも驚きでした。その日の飲み会で、友人に「ヤッチャイ隊に入れ」ってガンガン言われ、「まあ、つまらなければやめればいいや」って、とにかく入ったんです。
○人間がおもしろい
高校時代はバンドブームで、バイトした金でエレキベースを買って、大学ではマンドリンを始めて、でもずっとコントラバスをやりたいと思っていたので、先輩が壊れたから安く譲ってもいいって機会に譲り受けて、30歳くらいからはずっとオーケストラをやってきました。プロが教えてくれるし面白かったけど、メンバーは音楽バカばかりで、他人に対して批判的で、あいつはうまいとか下手だとか、自分でも批評しちゃっていて。一方でマンドリンも続けていたけれど、こちらは逆にメンバーに向上心がまったくなくて、ちょっときついことを言うと、うとまれる。そんな「帯に短し、たすきに長し」っていう状態が続いていたんですね。
そんなときに偶然出会った「音まち」は、他人への批判なんてなくて、イベント当日に向けて、ただ一生懸命みんなで取り組んでいる。建設的な話が多いんですね。自分も、自分ができることをやっているだけなんだけれど、それが一助になる。何より「音まち」の面白さ、楽しさは、いろんなタイプの人間がいるっていうことでしょうか。皆すごく個性的だけれど年齢に関係なく友だちになれて話ができる。「音まち」って共通項があることで話ができるんですね。しかも、みんな仕事が早い。能力が高いんです。
たとえば、Kは地元に住んでいて、千住の情報ならものすごく詳しいし、知り合いも多い。Tは何でも器用で、大工の棟梁みたいなことまでできて、「音まち」の活動拠点「音う風屋(ルビ:おとうふや)」を借りた当初、手すりをつけたり棚をつけたりと、あっという間につくってしまった。Aは音う風屋に図書の棚をつくろうって話になったらすぐに企画をつくって資料を持ってきたり、バーコードで管理できるシステムもあると提案をしてきたり。何か新しいことをやろうとすると、ささっと情報も集まってくるし、動きも早い。
そんな仲間といっしょに仕事することが楽しくてのめり込んでいったという感じですね。
○店を持つ夢
「音まち」の仲間たちと酒を飲む機会も増えて、誰かの家で飲み会なんてときに、自分が「美味い」と思う酒を持って行くのですが、そのたびに違う酒を持っていってたんです。そうしたら、そのうちに「それだけ酒を知っているなら自分で店を出せばいいじゃん」と言われるようになって。「なるほど、それもいいかな」と思い始めた。北千住駅の東口でやれば「音まち」の親しい仲間がいるし、いいかもしれない、やれるかもしれないって。
仕事では契約社員なので、今の会社で正社員に登用されるのが一番いい道だとずっと思ってきたんですね、それまでは。でも、今の仕事が自分に一番合っていると思っていたわけでもなかった。一方で、職場にあるレストランが忙しいとき、厨房を手伝ったことをきっかけに、仲良くなったコックから包丁の使い方を教えてもらったりして、それも面白かった。親しくなったコックからは「お前、もう調理師免許取れるぞ」なんて言われて。レストランの仕事で酒屋に仕入れに行くので仕入れ先との関係もでき、酒のことにも詳しくなってきた。
それに「音まち」に関わってくれている足立市場との人脈もできた。店をやるならまず自分の好きな日本酒に合う魚を出したい。こうしていろんな条件が揃ってきたんです。今は自分の店を出すことを目標に、調理師免許をとる準備もしていますし、もう少し金を貯めてあと2年くらいで店を出せればいいなと、具体的な準備を始めるようになりました。酒を飲んで味のわかる人間が「音まち」に何人もいた。そこで勧められ、後押しされた。
「音まち」では演奏もするけれど、表舞台に立たなくても裏方でも楽しいし、つくることに満足感を感じています。20年、ずっとやってきた音楽、どっぷりはまってきたクラシック音楽から、ばっさり切れちゃったことに自分でも驚いています。足立区は住みやすいし、自分にとってのふるさとという思いが強い場所だけれど、「音まち」に関わるようになって、「足立区からは出ないだろう」という気持ちがさらに強くなった。今の会社には練馬に寮もあってそちらに住むこともできるんですが、今はそれはないなと思う。
また「音まち」を通して区政にも目を向けるようになりました。区長が忙しいのにあちこち動き回っている姿を初めて見て、区のことを一生懸命考えていなければ、ああいうふうには動けないだろうと感銘を受けました。まだ関わり始めて1年弱ですが、「音まち」は自分にとって大きな転機だったといえると思います。